2010年01月24日 23:00
岡田外相とクリントン米国務長官が12日、ハワイで会談した。今年が1960年の日米安保条約の改定から50周年にあたることから、日米同盟を深めるための協議を始めることで一致した。
一方、普天間飛行場の移設については、名護市辺野古への移設という現行計画にこだわる米側と、「5月までに結論を出す」とする日本側はかみ合わず、各紙の報道には「懸案の先送り、棚上げ」「つかの間の友好ムード」「協調の演出」といった表現が目立った。
普天間の移設は大事なことには違いないが、「一基地」と「日米同盟の将来」のどちらがより大きな問題か明らかだろう。
「現行計画の通りにしなければ、日米関係は
どんどん悪化する」かのような報道でいいのか、
首をかしげたくなる。
○日米関係めぐる日本側報道に疑問
鳩山改革発足から間もない昨年10月1日のこの欄で、私は「新聞こそ『対米追随』ではないのか」という題で、日米関係についての日本の新聞の報道姿勢に疑問を呈した。あらまし以下のようだ。
①民主党政権に「大掃除」を期待しているのに、インド洋での給油や普天間基地の移転先など、対米政策だけは「前政権の決定をそのまま引き継げ」というのはおかしくないか。
②日米両国が、沖縄県内への移設を条件に普天間返還で合意してから13年。移転はなお解決のめどが立たないのだから、この際考え直してみようというのは、まっとうなことだ。基地周辺の環境保全などをめざして日米地位協定を見直すのも当然だ。
③「東アジア共同体」と聞くと「米国離れ」と反応するのは短絡的である。
④戦後初の大変化となれば、米国側が期待と懸念を抱くのは当たり前。日本の新聞は、米国の「懸念」を膨らませ、それに対して日本側の「当惑」をくっつけるパターンから抜け出していない。
あれから3ヶ月あまり。その間、11月に東京で行われた日米首脳会談で鳩山首相の「トラスト・ミー」発言があった。この発言を、首相が現行案通りに辺野古移転で決着させるつもりだと受け取った向きも多い。しかし首相の真意は違った。新聞は「首相の迷走」を批判し、以前にも増して「日米同盟の危機」を書きたてている。
もちろん、混乱の第一義的な責任は鳩山首相にある。しかしそれは「辺野古で年内決着」させなかったことではなく、「普天間を県外・国外に移転させたい」というその真意を、オバマ大統領や自身の内閣の閣僚にはっきり言わなかったことにある、と私は思う。
外交政策における一国のリーダーの優柔不断、八方美人は、思わぬ誤解や危険を招きかねない。首相は「トラスト・ミー」なんて余計なことを言わずに、大統領に対して「現行案を見直したい」「普天間にとらわれず、核のない世界の実現や地球環境の保全など大きな問題の解決に向けて日米同盟を深化発展させたい」とストレートに語るべきだったのだ。
だが、日本の新聞はその点を突くのではなく、もっぱら辺野古で決着させなかったこと、米国の主張に従わなかったことを、「危機だ」「同盟の漂流だ」と書きまくった。
○オバマ政権に「モノ申す」新聞が少ない
「最後は落とし所に落ちる」と考え、模様眺めをしていた記者たちもいただろう。それが外れたことが、鳩山内閣の批判や、読者に分かりにくい解説につながったとしたら、まずなすべきは、自身の思い込みや取材不足への反省ではないか。
これはテレビの報道も含めて気になることだが、「日米同盟の危機」を強調しようとアメリカ人を動員するとき、そのメンバーが限られているのである。たとえばカート・キャンベル国務次官補は、現職だから「日米合意の履行」を求め、「普天間が動かなければ、他の沖縄の負担軽減策も動かない」と強調するのは当然だ。
リチャード・アーミテージ氏やマイケル・グリーン氏も、日本のマスコミの「お好み」のようだ。ふたりはそれぞれ、ブッシュ前政権の国務副長官、国家安全保障会議(NSC)の要人だった。日米同盟を軍事的に強め、自衛隊の米軍へのさらなる協力を求めてきた人たちが、鳩山内閣を批判、懸念するのは不思議ではない。
その点では、朝日新聞オピニオン欄(13日)のインタビューは人選、内容とも新鮮だった。新米国安全保障研究所アジア上級部長のパトリック・クローニン氏は、辺野古への移設計画はもはや困難だ、という判断に立って、普天間の機能分散や本土移設を図るしかない、とする。一方で、
「辺野古一辺倒」で日本政府に圧力をかけ続けてきた米政府の幹部を「日本の政治の変化に対する認識があまりに足りな過ぎた」と批判する。
自国の政府を批判するばかりで、オバマ政権に「モノ申す」主張が、日本の新聞にほとんどみられないのはどうしてだろうか。
私が海外のメディアの論調に接する機会はごく少ない。それでも「危機だ、危機だ」と騒ぐ日本の新聞(そして一部の学者)より、ずっと冷静な見方に遭遇することがある。
○米紙の論調の方がずっと冷静
たとえば、インターナショナル・ヘラルド・トリビューンの1月8日のオピニオン面に掲載されたジョセフ・ナイ氏(ハーバード大教授)の意見だ。
「日米同盟はひとつの問題(普天間)より幅広い」と題するコラムの中で、クリントン政権で国防次官補を務めたナイ氏は次のように語る。
「たとえ鳩山首相が最終的に普天間移転の現行計画を飲んだとしても、米国はより忍耐強く、戦略的な見地から日本に接する必要がある」「留意すべきは、普天間だけが日本の新内閣が提起した問題ではないということだ。より対等な同盟、中国との友好関係、東アジア共同体など(米国にとっても重要な)問題が出されている」
「われわれは中国を世界貿易機構(WTO)のメンバーにするなど、あの国を世界システムに組み入れようとしてきた。しかし同時に、力を増した中国が攻撃的な方向に向かわないような手立ても欠かせない。そうした狙いのもと、(アジア太平洋)地域の安定と発展のために日米安保の再定義が行われた」
「安保条約(の改定)から50年。普天間のごたごたで互いに苦い思いを残したり、さらなる在日米軍撤退を招くのでは(日米同盟をより深める)せっかくのチャンスを逃すことになる」
「米国がガイアツで、日本を言いなりにさせ、日本国民を
怒らせたりしたら、かえって失うものは大きいだろう」
日経新聞は「日米安保50周年」についての18日の社説で、このナイ論文の一部を紹介した。読売新聞、朝日新聞もそれぞれ4日と19日に、ナイ氏への独自のインタビューを載せた。
同氏はそこでも「私は日米同盟が
危機にあるとの見方に同意しない」
「政権移行期に摩擦が起きることは、驚くことではない」
といった持論を語っている。
ここへきて各紙がこぞってナイ氏を取り上げたのは、大騒ぎする日本と比較的冷静な米国との「落差」に気付いたためかもしれない。
もうひとつ、ワシントン・ポスト紙フレッド・ハイアット論説面編集長の、東京発のコラム(12月11日)を紹介しよう。
「それでも日本は重要か」と題した文で、ハイアット氏は、日本人は自信を失っているようだが、「なお経済・技術大国、米国の緊密な同盟国であり、自由と法の秩序を支持するうえで指導的な役割を果たしうる国だ」としたうえで、次のように主張した。
「鳩山首相の素人的なやりかたにいら立ったオバマ政権は、不慣れな連立政権への忍耐と、政府間で合意したことの実行を迫る、という二つの課題をどうマッチさせるか腐心している」「軍事的な観点は大事だが、オバマ政権は大局を見失ってはならない。米国は中国に対して戦略対話など関与政策をとってきた。アジアで最も大事な同盟国である日本にも、中国に劣らず、それにふさわしい扱いをすべきだ」
「米国が日本に自信を取り戻してほしいなら、
『日本は重要な国だ』として対応することが賢明である。
実際そうなのだから」
このコラムは、読売、朝日のワシントン電が紹介した。
しかし、ともにニューヨーク・タイムズ紙の
コラムと抱き合わせで小さく伝えただけ。
「米政府が不安、不満、懸念」といった記事の山
に隠れて目立たなかった。
東京から、ワシントンから
「これでもか、これでもか」とばかり、
「首相の迷走」「閣内のばらつき」「沖縄のいらだち」
「米国の怒り」が伝えられる。
これでは読者が「日本は大丈夫か」と
不安に駆られるのは当然だ。
○国民全体で「日米同盟」考えるチャンス
国民を不安に陥れるのが新聞の役割ではなかろう。ここは、ナイ氏が指摘するように、世界の枠組みが変化したなかで、21世紀の同盟関係を国民全体で考える絶好のチャンスだ。
歴史という縦軸と、状況変化という横軸を落ち着いて見つめ直し、日米政府や読者に「考える材料を提供する」。それが、いま新聞のなすべきことだと思う。
私も、日米安保・日米同盟は大事だと考えている。これを弱めたり、壊したりすれば、日本は軍事的・経済的により大きなコストを強いられる。それは賢い選択ではない。日米安保体制が東アジアの安定の維持に貢献しているという意味で「公共財」と言ってもよかろう。
しかしだからといって、それは「どこまでも付いて行きます下駄の雪」のごとく、
米国に逆らうな、その言うことを聞け、と同義ではない。
まして、「普天間が現行案で決着しなければ、
同盟関係が崩れる」などというものではあるまい。
米軍の基地が必要で、その専用施設の75%が集中する沖縄の負担を減らす必要がある、となれば沖縄以外のどこかがそれを担わなければならない。
国民が、地域が、「自分たちの問題として」負担を考える意味からも、
それはチャンスなのだ。
「負担はいやだ。受益はもっと」という国民の身勝手が
政府の赤字を天文学的に膨らませた。
大都会は「快適な生活はほしい。でも放射能はごめんだ」と原発を地方に押し付けた。
「普天間の県外移転」は鳩山内閣だけが悩み、周りがそれを
あれこれ批評する事柄ではなかろう。
新聞はなぜもっと「あなた方みんなの問題ですよ」と、読者に鋭く迫らないのか。