てぃーだブログ › 相方さんが行く › 2008年03月07日
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国指定重要文化財 中村家住宅

2008年03月07日



中頭郡北中城村大城にある、中村家住宅にやってきました。
中村城跡から5分程の距離なので、
観光の団体客のセットコースになっているようです。
大型バスが止まっていて、観光客が来ていました。




敷地前の池には鯉がたくさんいて、売店で買ったエサにがっついていました。




ヒンプン(顔隠し塀)。
この塀は門の内外との仕切りで、外から直接、母屋が見通せないようにした目隠しの役割をしています。中国の「ピンフォンメン」が沖縄化したものです。(その昔、沖縄ではヒンプンを挟んで男性は右側から出入りし、女性は台所へ直通するためその左側を使用していたといいます。)

また中国と同じく、魔物はまっすぐにしか進めないと言われていて、魔物が入らないように、門の所で必ず曲がって入るように造られています。中国の建物にも同じ仕切りがあります。




中村家住宅は、約280年前の琉球王朝時代に建てられたそうです。


沖縄戦の戦災を奇跡的にまぬがれたこの住宅は、当時の上層農家の住宅の様子を今に伝えています。




中村家住宅は、戦前の沖縄の住居建築の特色をすべて備えている建物です。沖縄戦の激戦地だった沖縄本島内では、このように屋敷構えそっくり残っている例は極めて珍しく、貴重な建造物です。


今から約500年前、中村家の先祖賀氏(がうじ)は、忠臣かつ琉球王国きっての築城家としてもその名をとどめていた護佐丸(ごさまる)(中城城主)が読谷(本島中部)より城を中城に移したとき、共にこの地にその師匠として移ってきたと伝えられています。


この中村家の先祖賀氏(がうじ)が、護佐丸の学問の師だった、とする説があるのは意外と知られていないそうです。


内地ではほとんど知られてない護佐丸ですが、有能な政治家であり、武将で、築城家でもあった多彩な人物で、忠誠心が強かったと言われ、個人的には好きな歴史上の人物の一人です。

王府の命令で中城城(なかぐすくじょう)に移ってきた護佐丸は、当時対外貿易で力をつけていた阿麻和利(あまわり)の軍と戦うことになりますが、その際、阿麻和利は、王府に護佐丸に謀反(むほん)の動きありとうそをつきます。

阿麻和利のうそに騙された尚泰久王(しょう たいきゅうおう)は護佐丸討伐のため阿麻和利を総大将に任命し、1458年、中城城を攻め落としてしまいます。

この時、〔護佐丸は城を包囲しているのが王府軍と聞くと、自分の悲運を嘆き、全軍に一切反撃しないよう命じ、妻子とともに自害した。〕と伝えられています。護佐丸の忠誠心と人柄をうかがわせます。

護佐丸は自害し、護佐丸の軍は阿麻和利に滅ぼされてしまいますが、その後、陰謀は発覚し、阿麻和利も王府によって討たれてしまいます。この話は民話や演劇にもなっていますね。

ちなみに、近年の歴史研究では、「実は忠臣ではなかった」など、諸説あるようです。




話がそれましたが、1720年頃、中村家はようやくその家運を盛り返し、この地方の地頭職(本土の庄屋にあたる役職)に任ぜられました。


建築構造は、鎌倉・室町時代の日本建築の流れを伝えていますが、各部に特殊な手法が加えられて、独特な住居建築になっています。


この遺構は、士族屋敷の形式に農家の形式である高倉、納屋、畜舎等が付随して沖縄の住居建築の特色をすべて備え持っています。


屋敷は、南向きの緩い傾斜地を切り開いて建てられており、東、南、西を琉球石灰岩の石垣で囲い、その内側に防風林の役目を果たしている福木を植え、台風に備えています。




ウフヤ(母屋)。
一番座(客間)、二番座(仏間)、三番座(居間)となっています。
裏には各一間づつ裏座があり、寝室、産室として使用されました。
三番座の前方にはナカメー(中前)という板間がついています。




縁側の先にはアマハジと呼ばれる庇(ひさし)をつけています。
これで雨が降って鬱陶しい時でも、窓を開けて風を通す事ができるようになっているのです。
そして、雨端で暗くなった室内を反射光で照らすために、中庭を白い琉球石灰岩でつくっています。
建物は基壇で上がった所に建てて、雨水から建物を守っています。

沖縄の、雨と陽と風の住文化、自然と共に生きる文化ですね。


畳間は、すべて6畳かそれ以下で、当時の農民にはその大きさしか許されていなかったといわれています。




天井が低い場所が所々にあります。当時の人は、今より背が低かったようです。


柱は、琉球王府時代に首里の士族の家屋を移したと伝えられています。
柱のすべて、当時農民には使用を許されていなかったチャーギ(イヌマキ)、イーク(モッコク)が使われています。




シーサー(魔除け)。屋根は本瓦ぶき(明治中期まで竹茅ぶき)、漆喰塗りで、屋根の上には魔除けのシーサー(獅子)をおいています。

特にここのシーサーは、よくあるシーサーと違い、ものすごい形相をしています。全身で家をお守りしている感じがして、個人的に好きです。

シーサーは、もともとは屋根の上に飾られる魔よけでしたが、最近の一戸建ての家では玄関の左右の門柱の上に飾られています。しかも、門柱のシーサーは首里城の龍柱のように「阿吽(あうん)」で対になっています。




このシーサーのミニチュアが売店で売っています。思わず買ってしまいました。




屋敷の中には、珍しい、逆立ちしたシーサーがあります。




トゥングヮ(台所)。
トゥングヮには「火の神(ヒヌカン)」をまつり、毎月一日・十五日には拝むようになっていました。屋根裏部分が物置(主に薪や食料)になっています。




フール(豚小屋)。アーチ型の三基連結の石囲いは、豚の飼育所になっています。フールは現存している古民家(そば屋になっていたりする)に行くと、まだ残っているところがいくつかあります。豚はいないですけど。

このフールがトイレ兼用だったことは、県外の人にも割とよく知られていますね。人が手前の石段を登って用を足すと、下の養豚屋(ワーヤ)の豚がきれいに処理してくれる仕組みで、其の豚は人間が食するわけで、自然のリサイクルにかなった便所と言えますが、太平洋戦争後、衛生上の問題から使用が禁止され、豚小屋と便所は区別されて別棟になってしまいました。

また、このフールには霊力が強い魔除けの神がいるとの信仰がみられました。沖縄では今でも、トイレには神様がいるとされています。

ちなみにこの豚便所は中国から伝わったもので、中国では「コン」と呼び、現在でも中国奥地に行くと現役で使われているそうです。




サーターグルマ。
昔から沖縄の産業を支えるサトウキビを搾るためのもの。住宅の前に置かれていました。




隣接した建物におみやげ品店があります。お茶と黒砂糖を無料で頂けます。

おみやげ品店では、陶器、織物、紅型、泡盛、琉球菓子、琉球漆器等々、琉球の工芸品や南国の香り豊かな品々をがあります。


営業時間
午前9時〜午後5時30分まで(年中無休)
観 覧 料
500円


〒901-2314
沖縄県中頭郡北中城村大城106
TEL:098-935-3500




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Posted by 相方さん at 23:00Comments(0)観光名所